菊の里酒造(きくのさとしゅぞう)
●雄大な那須の大地が育む酒「大那(だいな)」
突然ですが、皆様は酒蔵をご覧になられたことはございますか?
全国には1000を超す酒蔵がありますが、その多くは市街地に存在します。
しかし、「大那(だいな)」を造る「菊の里酒造(きくのさとしゅぞう)」があるのは、のどかな田園風景が広がる平野部。
初めて蔵を訪問した際、最寄り駅まで阿久津(あくつ)蔵元に車で迎えに来て頂いたのですが、その車はどんどん市街地から離れます。
目の前に広がるのは田んぼや畑。これには正直、私も驚きました。
ですが、よくよく考えてみると「大那」という名前の由来「大いなる那須の大地」を象徴する最高のロケーション!
美しい水と良質な米に恵まれた、酒造りに最適の地に「菊の里酒造」はあるのです。
「菊の里酒造」がある大田原市は、稲作や酪農といった、農業がとても盛んな地域。
近年は唐辛子の生産量日本一ということで、オリジナル品種の栃木三鷹(とちぎさんたか)を全面に打ち出したPR活動が行われています。
大田原市の農業を支えているのが、関東随一の清流として名高い那珂川(なかがわ)
天然鮎のメッカとしても有名なことからも水の美しさがお分かり頂けるのではないでしょうか。
そんな那賀川水系の一級河川、箒川(ほうきがわ)の近くに位置するのが「大那」を造る「菊の里酒造」です。
●江戸時代末期から続く老舗蔵「菊の里酒造」
「菊の里酒造」の創業は江戸時代末期、薩長同盟が締結された年、1866年(慶応2年)
初代蔵元の阿久津傳一郎(あくつでんいちろう)氏は、酒造りを志し、良質な水を探し廻られたそうです。
そこで現在の地に辿り着き、井戸を掘り当て、酒造りを開始されました。
当時の屋号は「蜂龍舎(ほうりゅうしゃ)」
掘り当てられた井戸は「蜂龍の井戸」と名付けられました。
この名前には意味がありまして、蜂と龍からさし飲み、つまり酒を意味する言葉として、蜂と龍が用いられています。
蜂龍の井戸の水は、那須野が原の火山地層から湧き出ていて、軟水で不純物が少なく、酒造りにとても適しています。また、年間を通して水温が一定で、水量が豊富なので枯れることは無いと良いこと尽くめ。
現在の「菊の里酒造」を支えている命の水です。
創業後は「一流」や「君の友」というブランド名の酒を製造されて来ましたが、第二次世界大戦の起業整備で一時製造を休止されることになりました。
戦後の再開は1956年(昭和31年)で不動産等の異業種を経営されていた方との共同経営で復活。
「菊の里」を造る「菊の里酒造」の誕生です。
「菊の里」という名前は、那須野が原に群生する野菊の可憐なイメージに由来しています。
ちなみに、五節句の1つ、9月9日の重陽の節句(ちょうようのせっく)の際には盃(さかずき)に菊の花を浮かべて酒を飲む習わしがあるように、菊の花は酒に縁のある花でもあります。
「菊の里」という名前はその辺りのことも踏まえた上で名付けられたそうです。
酒造りを再開されてからは製造量を順調に伸ばし、昭和50年代、3代目の阿久津観蔵氏の代には約2000石を製造。その頃が最盛期で、製造された酒の殆どは秋田県の大きな酒蔵に納められていました。
●蔵の存亡の危機を救ったのは8代目蔵元!
大手蔵の下請け(未納税・桶売り)の契約が切れた1985年(昭和60年)以降は製造量が減少。
地元の旅館や式場向けの普通酒や那須等の観光地向けの純米酒で年間100石。
栃木県で最も製造量の少ない蔵になってしまいました。
この窮地を何とか打破しようと立ち上がったのが、現在の8代目蔵元、阿久津信(あくつまこと)さんです。
では、これより蔵元の経歴をご紹介致します。
彼は次男ということで、蔵を継ぐという意思は元々ありませんでした。
というのも、当時は共同経営で、「菊の里酒造」は本社では無く、工場というポジションだったことや、御両親も別のお仕事をされていたりで、蔵の跡取りという認識はほぼ無かったそうです。
そんな彼が入学された大学が意外や意外、東京農業大学。
高校3年生までは野球に打ち込んでいたこともあってか、東京農業大学の存在すら知らなかったそうですが、アメリカで酒造りをされていた叔父さんから、「大学を卒業したらカリフォルニアで一緒に酒造りをしよう!」と言われて、東京農業大学に進学されました。
(残念ながらこの話は諸事情により実現しなかったようです。)
当時はとりあえず就職の為に大学へという気持ちでの進学だったそうですが、それが後に大いに役に立つのですから、人生って分かりません。
大学卒業後は食品会社に勤められましたが、1年目に蔵を切り盛りされていたお祖父様が他界。
このことが蔵元の人生を大きく左右することになります。
兄は既に実家を離れ、別の道に進まれていたので、蔵の跡継ぎがいなくなったのです。
そこで、初めて蔵を継ごうという思いが芽生えました。
食品会社を退職後、茨城県水戸市の酒蔵に修行に入られました。
そして、2002年(平成14年)に「菊の里酒造」に戻られます。
蔵に戻った彼はこの時初めて蔵の窮地を目の当たりにされました。
杜氏の下で酒造りを学びながら、現状を打破すべく、県内の酒蔵や酒販店の意見を取り入れて立ち上げられた新ブランドが「大那(だいな)」です。
「大那」という名前には蔵の周りの風景である大いなる那須の大地のようにスケールの大きな蔵にしたいという思いが込められています。
2004年(平成16年)には商標登録を完了し、いよいよ「大那」の製造のスタートのはずでしたが、ここで問題が。
資金不足で米の仕入れが制限される上に、設備が普通酒に特化していたので、特定名称酒を造るには十分で無かったのです。
そこで、初年度はタンク1本分に留まり、県内の5軒の酒販店からスタートしました。
翌年はタンク2本を製造。
製造を増やしながら負債の返済と設備投資を繰り返し、2006年(平成18年)には栃木県を越え、首都圏で15軒の酒販店との取引が開始出来るまでに成長。
先代杜氏の引退に伴い、蔵元が杜氏に就任されたのもこの年のことです。
「大那」が全国区になったのは2009年(平成21年)
特約店の1つである東京の酒販店の推薦で、年に1度の日本酒特集で有名な食にまつわる情報誌「dancyu」に掲載されたのです。
これにより「大那」の知名度は一気に上がりました。
翌年の2010年(平成22年)には全国新酒鑑評会において初の金賞受賞。
更に2011年(平成23年)には株式譲渡を含めた経営の移行が完了し、2014年(平成26年)に8代目蔵元に就任。
その後も設備を次々に増強し、今日に至ります。
●情熱溢れる酒「大那」は飲み手をハッピーにしてくれる!
「大那」は米の旨さ、水の美しさが光る酒。
香りは控え目で品が良く、料理に寄り添える食中酒です。
また、蔵元が目指されているのは楽しい酒、幸せになる酒。
彼と話しているとそのことがよく分かります。
大いなる那須の大地が育んだ豊穣なバックグラウンドとして、米・水・土・人・技術・地域性を、農業製品である日本酒という形で表現されたのが「大那」
地酒の名に相応しく、使用米の約95%は地元、那須高原の麓、「黒田原地区(くろだはらちく)」の契約農家が減農薬で栽培されています。
現在、「大那酒米研究会」を立ち上げ、蔵と農家が一体となって安心・安全・高品質な酒米を栽培する為の取り組みが行われています。
また、蔵元が目指しているのは楽しい酒、幸せになる酒。
彼と話しているとそのことがよく分かります。
蔵元はとにかく明るく情熱的!
それはまるで旅が趣味の彼が南米キューバで学んだサルサのよう。
酒への愛、飲み手への愛、蔵人への愛が一言一言から溢れ出しています。
現在、「大那」は日本を越え、世界中を羽ばたいています。
「大那」の美味しさ、蔵元の情熱が世界中の日本酒ファンを魅了しているのです!
雄大な那須の地が育む情熱的な酒「大那」
是非皆様に美味しく楽しく飲んで頂きたい酒です。
地酒.COMは蔵元との太いパイプにより、
商品の安定供給を受けています。
菊の里酒造(きくのさとしゅぞう)阿久津 信蔵元とJIZAKE.COMの佐野吾郎です。
「大那」の販売はインターネットを代表する佐野屋が蔵元に代わって責任を持って行わせて頂きます。
当店は蔵元との太いパイプにより、商品の安定供給を受けております。インターネットで菊の里酒造(きくのさとしゅぞう)の商品をお求めの際は、是非とも地酒.COM、佐野屋をご利用下さい。
2024年5月
2023年5月
●「全国新酒鑑評会」で入賞!
菊の里酒造は2023年5月「令4酒造年度全国新酒鑑評会」にて入賞しました。
2023年3月
●「dancyu」に「大那 特別純米 那須五百万石」が掲載されました
2023年3月号の食関連雑誌「dancyu」は「ほとばしる 日本酒2023」。
そこで「大那 特別純米 那須五百万石」が掲載されました。「純米酒 ニュースタンダードを探せ! ふくよか、きれいな酒 BEST5」のコーナーで紹介されています。
2020年 5月
●「全国新酒鑑評会」で入賞!
菊の里酒造は2020年5月「令和元酒造年度全国新酒鑑評会」にて入賞しました。
2020年度の全国新酒鑑評会は新型コロナウィルス感染症拡大に伴う対応として、本来執り行われるはずの結審は中止となりました。予審の結果をもって入賞酒を決定し、金賞酒は選定されていません。
2016年 9月
●ANA国際線ファーストクラスの機内酒に採用!
2016年9月、「大那 特別純米 生もと 火入れ」はANA国際線ファーストクラスの機内酒に選ばれました。